「暗黙の序曲 / カンサス」を聴く
これは「やったぜカンサス!」に尽きますですな。
ジャケットの不死鳥ぽいやつが「ただいま急速にエネルギーチャージ中である、フルチャージした暁には真っ赤な姿で完全再生するであろう」と言ってるのではと想像しております。あれ?あながちアホ妄想ではないのかも?
当然カンサスのファンである自分だけど、結局初期から中期?ぐらいしか大好きレベルでなかったらしい。
このアルバムを第2期と勝手に区切ってしまうと (もう区切ってしまってもいいのではないか?)第1期後期はもはや私はファンでなくなってしまっていた。
いくらケリー・リヴグレンが担ぎ出されても、「ああ、今のカンサスはもう今の私にはピンとこない音に変わったのだな。」と。
もうこのアルバムにはスティーブ・ウォルシュの声もロビー・スタインハートのヴァイオリンもない。ケリー・リヴグレンも一切関与もしていないとのこと。
しかし、第1期初期の持っていたエネルギーが、音遺伝子がしっかりと「伝承」されている。
スケール感もあるし、全体的印象としてこの第2期カンサス序曲のイメージは「勇壮」って感じでした。
「ナイトウォーカー / ジノ・バネリ」を聴く
CD のデータ化と、数度にわたるHD カタストロフの中で2度くらい手元から無くなっていたこのアルバム。
今1000円で手に入る、AOR CITY 1000 なるシリーズの一枚。
そりゃ即買いですわ。他にも色々よだれもののシリーズだ。
振り返ってみると、このアルバムがジノ・バネリのAOR路線最終形態ではなかったか。
前作「Brother to Brother」で極めた感のある高度なフュージョンスタイルからの「Nightwalker」、強くてカッコイイことここに極まれりなり。
ライナーノーツを見る。
ドラマーがヴィニー・カリウタに変わっていたのか。
ここではタイトでシンプル目の強いタッチで叩いてて、これがこのアルパムカラーを決定するくらい強力だ。
ベースもジミー・ハスリップからニール・スチューベンハウスになってるのか。
てゆーかギターがカルロス・リオスじゃなくなってたのか、なんか吹っ切れて前に出るようになったとばっかり思ってた。
これもアルバムカラーにハードさが加わった要因なのだな。
ニール・スチューベンハウスとヴィニー・カリウタとくるとペイジズの3rdの「Pages」が思い出される。1st ソフトで良か、 3rd がカッコ良かった、でも 2nd 何度聴いても好きになれなかった。ってゆーか iTunes にペイジズが一つも無いー!!
ジノ・バネリもこれ入れて3枚しか入ってないぞ?あれー?
がーん!
まーいーや。HDカタストロフも iTunes の音源ラインナップがガラッと変わるから、それはそれで面白いので特にバックアップ体制はとってないし、これからも取らない。
何度か全てが無くなった後、また聴きたくなる印象の強いアルバムというものが絞られて CD で残っていくのも面白い。
この「Nightwalker」はそんなアルバムの一つだったということですな。
「サレンダー / マイケル・A・シンガー 著」を読む
2巡目の読み。
1巡目より生々しく感じてドキドキした。
「サレンダー」なんて消極的なイメージの言葉な感じなのに、ここでのそれはめちゃくちゃアグレッシブだ。
それはどうどうと流れる激流の中に、ポーンと手ぶらで飛び込む勇気。
それすら自分に訪れるものは宇宙の贈り物として誠心誠意尽くすという決意。
それがどれほどパワフルなメソッドであるかを実体験で示すこの本は本当に衝撃的だ。
ぼくはコンピュータに魅せられて、途中丸々 10 年ほど( 恐怖から )完全にコンピュータを絶ったにも関わらず、結局 IT系な仕事に巡り合って現在に至ってる。
だからこの人の後半にコンピュータが溶け込んでくるところなんか物凄く興味深くてしょうがない。
もうミッキー師匠!である。
ぼくはボンヤリと大昔思い焦がれてたものを思い出した。
魂、コンピュータ、音楽や絵、これらがお互い交わり生かし合えるようになって、その間を繋ぐ者になれたらなぁと。
まあ、アホな怠け者のボンヤリした夢想だが、ここにそのお手本のようなお方がいたのだ。
スピリチュアルとコンピュータとビジネスがスパイラルを描きながらどこまでも弥栄するドキュメントがここにある。
でも、自分だったら途中で怖気付いてこれ以上の変化が怖くなって流れから引っ込むかもしれない。
ここに彼の信心が命がけのものであることが感じられる。
おそらく、途中下車すると自分という存在が粉みじんになると感じてるのかもしれない。
同時に激流の流れに身を任すことの楽しさを感じている。
「命がけの遊び」が伝説の古武術の達人たちに共通すると甲野善紀さんの本で読んだ気がする。
ってゆーか話がどっか行ってしまった。
つまりミッキー師匠は達人だということで。
達人たちの目標は自己からの完全なる自由ということか。
自分の好き嫌いに振り回されているのは自由ではないのだな。
「誰でもできる透視リーディング術」を読む
読み、3巡目です。
数ある「やってみよう」コーナーは相変わらず、一つもうまくいかず、
「誰でも」からソッコーはじかれております(笑)
そんなことより、この本はいいなー。
何かを思い出させてくれそうで、つい読んでしまいますな。まっ何も思い出しませんが。
今回の読みで、あっこれってあれのことか? てのがあった。
透視とは、肉眼の「見る」はなく脳裏に映るものを「視る」であるというところだ。
仕事のプログラミングで根の深そうなバグ、カオスにしか見えない挙動等の、今の自分のスキルでは絶対無理!なものに出くわして行き詰まった時、
僕は心の中で「何が起こっているのですか?」とか「これを解決するにはどうしたらいいのですか?」などとつぶやくのだが ( いつの頃からだろう? )、
こうすると適当なタイミングでふとイメージや直接スペルが一瞬微かに浮かぶことを知っている。
これに何度救われたことか。
この時のイメージをなんと言えば良いのか。決して見えてるのではない、かといって見えてないようなボンヤリしたものではない。
何だろうこの「見える」のではない「わかる」のようなイメージは?
ああ!これがこの本にかいてある、脳裏に映るイメージを「視る」ってやつか?!
ってゆーか、これが脳裏で「視る」ってやつなら確かに日常茶飯事だ。
この本にあるように誰でも気づかずに使っている類のものだ!
そういえば、僕は自分の中にふっと訪れる小さな小さな微かなタッチのようなものを、なるべく気がつくようにして、そして大切に受け取ろうと思うようになってきた。
それは、昔の自分だったら「くっだらねー」とか「よくある、たいしたことないもの」と言って捨ててたものだ。
確かに他の人にとっては「くだらない、たいしたことないもの」であっても、僕は大切にしよう、自分で「くだらない」と言わず大事に受け取ることにしよう。
そのためには1mmでも鼻高になっちゃならないことはとても良く解る。
だって微かなタッチが、全く気がつかなくなる状態だよね。
自分にとっての本当の謙虚とは、小さな小さな微かな微かな贈り物に静かに感覚を澄ましていることなのだなー。
と思い出した。
ああ、この本が好きなのはこういう「謙虚」であることの大切さを思い出させてくれるからなのだな。
「生命の閃光・体は電気で動いてる」を読む
「人間は電気仕掛けの土くれにすぎない」って本当のとこどーなの?
イオンチャネルなるものの難しいお話が真ん中なのだが、素人の僕でもなーんとなーくイメージできないわけでもないレベルまで降ろしてくれてる、がそれだけではない。
もっと興味を引くようにと話題の裾野を広げてくれて、これが意外と面白い。
電気の歴史も本当に面白い。
中世では死体を電気で動かしまショーが流行ってたですって!?
フグの毒での死がイオンチャネルをピンポイントで狙う仕組みなのですね。
てゆーか、死というものがイオンの平衡状態による細胞の活動停止なのですか。
なんと精巧な仕組みなのでしょう、生きているとは。
人間の筋肉の動き、思考から情動に至るまでいかに電気的現象によるものであることが平易に語られている。
本当に「人間は電気仕掛けの土くれにすぎない」
でもこれは現象から仕組みが解明されているだけ。
その心は、医療が人を救える可能性が大きく広がることなのだな。
「すべての疲労は脳が原因」を読む
ふと読み返してみた。2巡目。
1巡目よりも、目から鱗状態ですな。
「疲労」の考え方をアップデートしなくちゃって本ですな。
僕は目の疲れから神経に変調が出ることがよくあるので、そのメカニズムが書いてあったり色々なるほどーですな。
色々と常識が覆りますな。