ささやかアウトプット

五穀豊穣がインプットした小さいあれこれをささやかにアウトプットするブログ

「あなたの脳のはなし」を読んで

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本屋で目が合ってしまった。

一瞬「恐い」と感じた、が手に取った。

 

人間の行動は意思が決める前に始まるというのは小耳にはしています。

不思議だなーとおもいながら。

しかしここでは、あたかも自分の意思が決めたかのように、

行動が終わってから辻褄を合わせるのだとあります。

早くも自分ってなーに?ってなことになってます。

 

視覚は視神経からの信号をもとに脳が作り出してるとありました。

ぼくは昔、唐突に息が出来なくなったときの経験で、

街の建物も人も輪郭が混じって区別がなくなって

原色の光が渦巻いたりしながらうねうね動き続けている風景(?)を

たことがあります。

原因がわからず、病院クエストするくらい「恐怖」して10年くらい

トラウマになってたなー。

だから、見えたものは一旦脳が処理して「現実ショー」を作り出したもの

というのはわかる気がする。

現実には色も音も味も匂いもなく、「脳の外にはエネルギーと物質があるだけ」

それがこれだけ色や音や味や匂いの「豊かな感覚経験」があるのは

とても不思議で奇跡的なことなのだなー。

 

脳にとって感覚器官に区別がないとあった。

驚いた。

入力のデータストリームは全部同じものとして扱うなんて

UNIX と同じ設計思想ではないですか。

だから、「感覚代行」で例えば舌を使って見ることができたりするらしい。

感覚拡張が可能で、人間の5感以外の感覚も付与できてしまうなら、

「現実ショー」はいったいどんな感覚体験に変わるのだろう。

しかも脳はそれにも対応出来るくらい未完成なウェットウェアなのだ。

 

ウェラブル端末は「侵入的手術」のない「感覚代行」の一つということに

なりえる可能生があるのかな。

 

「人間どうしのリンクを理解することがかつてないほど重要」な現在。

自分の半分は他人とあります。

「私達のニューロンが成長し生き延びるためには、ほかの人々のニューロン

欠かせない」のだそうです。

どこまでも人は他人あっての自分なのですね。

プラットフォーム的な五感を使って共栄するようにできてるのか。